軽ジョグ
のんびりと過ごすことに段々と罪悪感が薄れていき、社会と切り離された生活を自分の中で”スローライフや!!”って位置付けてしまっている今日この頃。
犬に吠えられようが猫におしっこかけられようが私はスローライフを満喫している。
といのもちょっと前まで入院しており社会復帰はまだだたとありがたい神のお告げをいただき、「え〜でも〜」なんて言いながら内心は休みの三文字がウィウィウィウィウィパーリーピーポーみたいにはしゃぐからしょうがなく休んでいる。
休みすぎて体が鈍らないようジムにでも行こうかと計画しているが頭にいるパリピが
「ちょっと待てちょっと待てお兄さん!!!筋トレするってなんですの??」なんて言うからあくまで計画段階に止めておいている。
だがしかしだ、病院で規則正しい囚人のような生活をしていたためしっかりお腹に肉は付き体重もしっかり増加しシャバに出てきてしまった。これからも待ち受ける規則正しい生活によってまたしっかり肉付きが良くなってしまうことを恐れているのだ。
他に方法がないかと考え軽いジョギングをすることにした。軽ジョグだ。36番とプリントされた良く分からんサッカーのユニホームを着て軽くジョグ。ジョグ途中でワンツーなんか入れたりしてちょっと密着取材受けている風な感じにして挙げ句の果てには聞きもしないロッキー聞いたりしてそこの36番意味不明。
そんな時だ。奥田民生のイージューライダーが耳に飛び込んできたその瞬間、今まで鎖で縛られ身動き取れなかった「歌う。叫ぶ。踊る」の長男、次男、三男がフルちんのまま飛び出してきた。私は軽ジョグ中に歌い、叫び、踊った。犬に吠えられた。気づかなかった。犬がいること、人がいること。
そんなこんなで私は愉快な生活を送っている。朝食のデザートが俺の分だけなくても文句言わない。ダイエットだってする。女も抱く。屁もするしウンコもする。
仕事だけまだしないのは
買う物は勇気とほんのちょっとの希望
楽天のアンケートで「買い物はよくする方ですか」という項目があった場合他の項目にはみ出すくらいの丸で「いいえ」を囲みます。英語の授業以外でショッピングと発音したことがありません。アウトレット?なんだクリント・イーストウッドの新作映画か?くらいの感覚です。
それでも年に1回は私にまとわりついている雑音を振り払い(誰が何を言っているわけではないが)武蔵丸でも背負ってるのかってくらい重い重い腰を上げ買い物に出かける。
その1回とはそう。泣く子も黙る年始の初売りである。それまでテレビが壊れEテレしか映らなくなろうが、パソコンのキーがHしか打てなくなろうが初売りまで我慢している。
理由は特にない。ただ、多くの人が列挙するあの電気屋の雰囲気と待ってましたと言わんばかりに待ち受けている狩人達の罠に自ら引っかかりに落とされに行く自分が不思議と好きなのである。
わかってはいるのだ。世の中休みだなんて関係なく半袖のワイシャツと何者からか身を守る防弾チョッキを着た奴等に口撃されるのは。
「今日はどうなさいました!!!」朝からそんな大声でお前は猪木かと思うが、この言葉こそ私にとってあけおめことよろ以上に新年を迎えるお迎えのお言葉だ。
何よりその活気に飲み込まれついつい余計なものまで買ってしまうのが気に食わなかったのでこっちだって「はははっは!!戦争じゃい!!」くらいのテンションでここ数年はアジトに乗り込んでいる。予算は家で作るものじゃない!!現場で作るものだ!!
結果は惨敗だ。レアルマドリードなら監督が解任され選手の家には豚の死骸や裸の女性の写真があちこちに貼られることが起きるくらい惨敗だ。だからこそ勝ちたい。
いや誰にだよっていう話だが。
こうして私の一世一代の買い物が始まる。世の中がお餅と駅伝に心浮かれている頃、財布とほんのちょっとの勇気を手に持って「買い物」という一世一代の勝負に乗り込むのだ。それが私の買い物だ。
今年はパソコンが壊れた。電源を入れると平泉成みたいな声が聞こえる。重症患者だ。
どうか今年は穏便に穏やかな勝負を狩人民と繰り広げたいものだ。値引きは当然の宿命だ。ここ最近で学んだのは値引きは気持ちだ。家なき子の安達祐実スタイルだ。同情するなら200円まけてくれ!。ついでにおまけを貰う。今年からのチャレンジだ。マウスパットでもなんでもいい。羽生善治のように相手を追い込みここぞの飛車角落ちで「参りました」言わせてやる。
どうか私の戦いをNHKさん中継してほしい。世の中にはメディアが作り出した「初売り」というイベントに手に取られたように踊らされる若い国民がいることをクローズアップ現代で放送してみてはいかがでしょう。
それこそが私の「買い物」であるり、新年のプレイボールだ。
オナニー
検索することは非常に便利です。
眠気を吹っ飛ばすと検索すれば吹っ飛ばし方を教えてくれるし、死にたいと検索すれば死に方を教えてくれる。誰かに聞くより検索した方が数万という回答が出てくるしその中から自分にあったものを選べるビュッフェスタイルなわけだからもっと重宝していいと思う。
小説家って魔法使いだと思います。誰しも言葉に出来ない感情があってそれを言葉にしてその言葉が喉から肺を通って心に入りこんで行く。そういう表現にあった時はオナニーの1億倍の快感を得られる。
だから憧れる。人の感情をすっと言葉にできる能力があればどれだけ楽しいことか。
でも、皆んなそれが出来ないから、というかやろうともしないと思うけど直接的な言葉で総合格闘技みたいになんでもありな乱闘になるのかなって。
美しいものや品がある言葉や文章は表面の美しさに加えその言葉の旨味、臭いすらも私達に放たれていると感じますよね。
神経が張り詰めてその糸に水を垂らすとならないはずの音が鳴ったり。だから小説は面白い。自分が異空間にいる錯覚を与え五感を刺激させる彼ら彼女の技は風俗嬢より風俗嬢っぽい。
小説の帯や表紙を見て勃起することはないけど気づいたら手に持っていてその重さ、感触を肌で感じてまた知らない世界に連れて行ってくれる。
いつの時代も表現は時代の象徴と創造だと思う。
今日もオナニーするか。
カブトムシ
小説の表現って2mm程度の擦り傷を広げて広げてその上からバンドエイド貼って無理やり剥がすみたいな表現が多いように感じる。
でもその表現が歯の奥に挟まって中々取れなくて後味悪く張り付いてるから小説って面白いと思うんだと思う。どうでもいいですが。
今日はもう耳から離れない。
文学的で哲学的でなんか懐かしい青春を思いだしてくれるあの歌詞がたまらなく好き。
小学校の時カブトムシを見つけただけで家族の中でヒーローになれた。
純粋に夢中で何も考えないでただ目の前にある宝石を手したくて転んだり泣いたりして傷だらけになって探していたことを思い出した。そんでちょっぴり泣きそうになってしまった。
大人になってその宝物がお金だったり仕事だったりに変わって探すことすらやめて。
木の棒さえあれば見つけられたのに今は多くの荷物を背負って探しに行かないといけなくなってしまったことに無念さを感じてしまった。
もう一度だけ旅を始めよう。何億の夢を夜空に蒔いたから小さな星に変えてくれ。
抜群に好きこのフレーズ。
今は小さな小さな星で充分です。見つけ方は自分で探します。一人一つその星が存在し見つけることができれば宝物だって見つけられんのかね。
小さい頃の私。今想像もしなかったくらい大変な道を歩いています。
大人になるって大変です。タバコやお酒が飲めるようになるのが大人になるってこと
ではありません。絶望や挫折を乗り越え強くなるのも大人の仕事ではありません。
大人の仕事は小さい頃の宝物を探すことです。見つける旅をすることです。
旅をしましょう。そしてそこで何億物の星を見つけましょう。
ってな訳で近々旅に出ようかと思います。
僕が旅に出る理由。心変わりは誰かのせいですね。
悩み受け付けます
悩み相談なんかしてみたい。
僕の周りは悩みはないが健康診断に引っかかる人ばかりだからだ。
人生右に行くか左に行くか迷える子羊の悩みを聞いて、「最後は自分で決めろ」
ともっともなことを捨台詞にドヤ顔したい。
他の人の悩みはよくわからないけど大抵の悩みはコインの裏表で決めても然程問題がない悩みに思える。ささいなことではないがどっちに転んでも結局は同じ人生を歩むようなきがする。
どっか雲の上から自分達を監視してる天国役員の方々が「あいつ最近不幸ねえなここら辺で一発入れとくか」なんて会話をして実行役が実行しているのではないかと思っている。
昨日猫のウンコ踏んだのも天国役員定例会議で決まった私に対する不幸案件に他ならない。しかし、そんな小さな豆粒みたいな出来事でショック受ける程メンタルは弱くないと思っている。役員よもう少し実のある会議にしてほしいものです。
最近失恋した方。恐らくそれも天国役員定例会議で決まった案件です。
最近財布落とした方。それも会議です。
最近太った方。それは知りません。
結局はなるようになるんだと思う。
台風だって来たくて来てるわけじゃないけど来たら来たで次の日晴れ日持ってくるし。
ってことで全然読んでる人いないけど悩み相談します。
最近の若者はつまらない
タイトルの通りです。つまらないらしいです。まあ、わたすもそのつまらない若者の枠組みに入っている1人ではありますが。
そもそもつまらないって何だろうね。個性が無いとか?そんな感じかね
別に無くてもいいとは思うがそういうわけにはいかないのでしょう。
盗んだバイクで走りだしてきしむベッドの上で抱きしめあった青春を過ごした先輩方からしたら私たちの生き方はTHEマニュアル通りのコンビ二人間に見えて仕方ないのもしれない。
別にいいじゃんかって本当に思う。つまらないよりめちゃくちゃ面白い若者の方が心配になるが。
それでも、そんな偉大なる先輩に対抗しようとした若者がアイスケースに入ったり、蕎麦屋を閉店に追い込んだりしたわけだ。そうだ我々の時代も普通の世界から若者なりの若者らしいはみ出し方をしている。
昔と違い今はそれを全世界に向けてアピールする場が多すぎる。きっと彼らもアポロシアターで歌っているかのような、世界の注目がアメリカ大統領選より自分に向くことを期待し、いわゆる「時の人」として生きていけると思っていたのかもしれない。
そう。いつの時代も大人が社会が作った枠組みから外れようと足掻く若者いるわけだ。
勿論彼らがしていることは許されることではないが、大群の群れから1人外れ、その外れ物を腫れ物に触れるように扱う今の社会こそ個性や面白みをなくしてしまっていると思う。
ネットの中でのヒーローがもはやイチローと同じくらいの憧れを抱かれていることが、この現実世界のつまらなさを象徴しているような気がする。
かと言って何か出来るかと言われれば何も出来ないから私もまた1人の傍観者として面白みもないマニュアル人間として生きていくしかないわけだが。、
とりあえず、友達に借りたバイクで走り出してラブホテル街を爆走し国道沿いのコンビ二でタバコを吹かしながらシュークリームを食べてみよう。
いや~~けっこうださい。。。
見栄を張りたいい自分
根っからの人見知りである。
小学校1年生の時に全校生徒60人の小学校から1学年60人程の小学校に転校した。
私は村人からシティーボーイーへと生まれ変わった。
何百人という全校生徒の前でマイク無しで自己紹介をしたことは未だに覚えている。
自己紹介終わった後の拍手は自分がロック歌手にでもなった気分だった。
自己紹介をしたにも関わらずクラスに入ったら皆から名前を聞かれたあの屈辱は忘れられない。
皆と早く仲良くなりたかったから給食に出てきたトマトのヘタを全員分食べた。
ここで引いたら私は生き残れないと本能が動いたんだと思う。
結果、皆笑ってくれた。私は泣きたかった。ヘタは苦かった。
それがきっかけになったのか6年間これといった迫害も受けず無事に卒業出来た。
卒業式の最後に皆で埋めたタイムカプセルが私にだけ戻ってきてないことを除けばそれなりに楽しかった学校生活だった。
高校時代も同じ中学の友達は誰もいなかった。俺は人生の節目で一人で戦場に乗り込むことが多すぎる。おそらく前世は特攻員かなんかだったのだろう。
早く皆と仲良くなりたかったからほぼ初対面の人の家で携帯に保存されてあったAVを大音量で流した。戦略だった。下ネタは万国共通っていうからね。
結果、皆引いていた。私は泣きたかった。その場を脱走したかった。
人見知りだけど誰よりも皆と仲良くなりたい気持ちは強い。ただ、距離の詰め方あがあまりにもトリッキー過ぎることが問題なのだ。
いつも待ってしまうのだ。趣味は何か、彼女はいるのかといったパーソナルな部分を引き出してもらうのを。
だから強力なオフェンシブプレイヤーが現れたら私は空気になってしまう。そして対抗するべくトリッキーな技を連発してしまう。悪い癖だ。
新たな職場で新しい戦いが始まる。
そろそろ本格派ないぶし銀の距離の詰め方をマスターしたい。
タモリみたいな距離の詰め方をしたい。髪切った?って言ってみたい。
インスタもいっぱい更新したい。友達がDJやってるとか言ってみたい。
道端アンジェリカに罵られたい。友達が読モって言ってみたい。
また明日頑張りたい。